気まぐれ日記 2013年3月
2013年2月はここ
3月1日(金)「やっぱり無茶な1日?・・・の風さん」
風邪がまだ治りきっていないワイフを留守番させ、次女をセントレアまで送った。
大学の仲間約20人と香港で展示会をしてくるそうだ。
自費で挑戦する姿勢は親譲りか。帰りは北京など観光してくるらしいが、怪しいスモッグをどう感じるだろう。
帰りにワイフのアクアに給油した。
先週と比べて寒くはない。もう3月だからな。
最寄りの駅を8時47分に出発する電車に乗った。今日は有休。東京で作家活動をした後、また福島へ出かけるのだ。
名古屋までの電車では、今日の講演のための勉強をした。
新幹線までの乗り換え時間が9分しかないので、名鉄名古屋駅に着く前に、ドア近くに立った。
改札をダッシュで抜けて……という作戦だったが、ポケットから定期券がさっと取り出せなかった。こういった動作がすばやくスマートにできないところに老化を感じる。
JRの改札口に着いて、切符を出そうとしたところで事件は起きた。
座席指定券はあるのだが、乗車券がないのだ。
いくら探してもない。
名鉄の中では確かにあったのに……。
名鉄の定期券と同じポケットに入れてあった。ということは、さっき改札を抜けるとき、ぽろりと落とした可能性が高い。戻って確かめている時間はなかった。乗り換え時間は9分しかないのだ。
決断は早かった。
急いで自動券売機で乗車券を購入して、改札を通った。
ホームに着くともうのぞみは到着していた。
席について、疲労と後悔と想定外の出費で落ち込んだ。
12時過ぎに私は東京タワーの横を歩いていた。
初めて原稿依頼をしてきた出版社と落ち合って、打ち合わせた。原稿用紙6枚のエッセイだが、先方の意向をきちんと聞いておくことは大事だ。さまざまな話をしながら、その出版社の経営に非常に興味をおぼえた。定年のない会社で、創業以来ほとんど同じメンバーでやっているらしい。当然高齢化しているに違いないが、熟練技能集団に決まっているし、報酬がインフレしていなければ、経営を圧迫することはないだろう。今回の仕事が終わったら、会社を訪ねて、そのへんを調査したい。
午後から、精密工学会の研究会に参加して、特別講演をさせてもらった。
家族的な雰囲気の研究会で、心地よく講演できた。
懇親会にも少し出て、持参の本を6冊も買ってもらった。
6時過ぎに会場を出たわたしは、浜松町駅を経由して、東京駅からやまびこに乗車した。
8時過ぎに郡山駅に着いた。先週と違って激しい寒さは感じなかったが、郡山は雨が降っていた。
駅で日大工学部の先生と落ち合い、郊外レストランで晩御飯を食べた。
昨年は、母をだまして入院させたショックで福島へ行かなかったので、当然大学も訪問してなかった。久しぶりの情報交換だった。
先生の車で須賀川の母の家まで送ってもらった。家の周辺にはまだ雪が積もっていた。
先週のような悲しみを感じなかったのは、また来れたうれしさの方が勝っていたからだろう。
風呂にも入ってベッドにもぐり込んだのは午前1時過ぎだったが、今朝の2時間の睡眠時間から起きてもう20時間が経過していたのだった。
3月2日(土)「ヘルパーさんの申し出に感動・・・の風さん」
昨夜は暖房を入れずに寝たので、寒くて目が覚めた。
2階の自室から外を眺めると、一面の雪景色に変わっていた。
義姉が用意してくれたパンとコーヒーで朝食にし、今日の作戦を練った。
うまい具合に午前中にニチイのヘルパーさんが二人来てくれた。母の面倒をみてくれた人たちだ。
母が使わずに残した大量の尿漏れパッドや紙おむつ、おねしょシーツに加えて室内用ポータブルトイレを引き取ってもらった。困っている人に使ってくれるそうだ。ありがたい。
生前の母を心から敬愛しつつケアしてくれた二人なので、職業を超えて、身内として遺品の形見分けをお願いしたところ、意外にも母の手作りの人形を希望された。それが最も母を感じるからだという。それはそうだが、あまりにも家族的な発想に、私の心はふるえるほど感動した。
私はすぐに承諾し、あと、食器を少しもらってもらった。
雪が降る中、帰っていく二人を見送った後、今日の作業に取り掛かった。
今日は、1階の洗面所と台所を集中的に整理した。
震災直後にスーパー(現在は閉店してもう跡形もない)で購入した大きな座布団をコインランドリーで洗濯するというイタズラもやって(案の定、内部の綿がめちゃくちゃになった)、午後6時前に一段落した。
それまでに雪は雨に変わり、強風も吹き出していた。
ヘルパーさんとのやりとりを留守宅のワイフにメールしたが、ワイフも涙が出たという。
兄の家で晩御飯をよばれ、今後の相談をして、兄の家を後にした。
家族総出の遺品の整理や片付けをやる前に、母との生活が長かった私の整理作業を、まだやる必要がある。
3月3日(日)「感慨深い復路・・・の風さん」
今朝も外は雪景色だった。
午前中、最後の片付けをやった。風呂洗いもして、ごみ袋の数は4個になった。これらは後で、義姉が捨ててくれる。
母の遺品整理が目的だったが、今回は父の残した新品の衣類をたくさんカバンに詰めて家を出た。
バスで郡山駅まで向かった。
駅の待合室でパンで昼食にし、福島弁の昔話の語りを聴いた。これは勉強になった。いつか会津藩を舞台にした小説も書きたいと思っているので、この雰囲気を感じておけたのは貴重だった。
寒風が吹く郡山駅前から高速バスに乗った。東京まで4時間、JRの乗車券とほぼ同額で行ける。
震災直後、まだ東北新幹線が復旧していないとき、東京から郡山まで高速バスを利用したが、その逆ルートの利用である。あれから2年。なんて激しい環境変化だったろう。
バスは意外と混んでおり、私は半分寝ていた。
池袋駅前でバスを降りて、JRに乗り換え、東京駅で予定より30分早いのぞみに指定券を変更して、やっと新幹線に乗車した。
ここからは比較的元気が戻ってきて、自宅の最寄りの駅に着くまで、吉村昭さんの『三陸海岸大津波』を読み続けた。今回の震災を身近に体験した者として、内容が生々しく迫ってくる。
90ページ読んだので、時速45ページという、私の標準的な読書速度だった。
風邪が治ったワイフが駅まで迎えに来てくれた。彼女も、子供を産んで以来、初めて一人ぽっちの生活を二日間経験していた(猫は一緒だが)。
500円もしないワインで、昨今の奮闘を二人でねぎらい合った。
3月4日(月)「奇跡・・・の風さん」
ゆっくりした週末を送ることがまずあり得ないので、ウィークデーをのんびり過ごすしかない……なんてことも無理か(^_^;)。
とりあえず旧職場へ出社。最近の頭痛の種はここにある。
定例会議に出席した以外は、シコシコと雑用の山崩し。さらにそれらの合間に、相棒とコミュニケーションをはかる。やはり相棒は超多忙なので、助けてやる。
帰宅したが、今日は終日、本当に頭が痛かった。風邪でもなければ花粉症でもない。
疲労に違いない。夕食後、週末の無理がたたってダウン。
午前2時半に目が覚めたので、よっこらしょ、と起き出して仕事を始める。
ビジネススクールの掲示板を見たら、もうこの間の成績が出ていた。
信じられないことに、これで4科目連続「A」である。ミステリーだ。奇跡だ。
喜んでいたら、青くなることも発見。テキスト代の納入期限が昨日だった!
3月5日(火)「老いぼれ・・・の風さん」
そのまま朝になり、朝食を摂って、研修所へ出社した。
出がけに庭の梅を見たら、ほぼ満開。うっかりしていた。こうやっていつの間に時は過ぎ、私は老いぼれ、後悔先に立たず、という羽目になる。
昼休みにまたプロジェクトXを観た。カシオのデジカメ。ビジネスに成功するには、タイミングも大切ということだ。それにしても日本人ってスゴイ。
午後、社長と面談。今年の定年後のことに話し合った。
理解ある提案を受けて恐縮してしまった。
しかし、よりによって、この日の朝、美味しい就職話が不成立になったというメールを受けていた。
定時後、定年退職の挨拶を聞いた(この方の場合は、雇用延長も終了)。私も7ヶ月後にこういうことになるのか。
戸締り当番を終えて、9時少し前に退社。
退社のスリットを忘れた。最後までしっかりボケ。
3月6日(水)「平凡な1日・・・の風さん」
今日も研修所へ出社。
午前中の会議の開始時刻を間違えて、会議に遅刻。朝から早速ボケ。
昼休みにまたプロジェクトXを鑑賞。今日はYS−11の前半。これはすごい。GHQに封印されていた航空機設計製造技術を、戦後10年目から再開して、名機を生み出した話だ。特に50代半ばの5人のサムライが中心になって開発したという点は、少子高齢化が進んだ現代、再度見直す必要がある。
その後、旧職場へ移動。
自分で主催した会議をやり、議事録もちゃちゃっと作成した。
今年最後になるかもしれない灯油を購入して帰宅。
くもん出版の編集者の個展の案内ハガキが届いていた。
妥協しない生き方をしてきた人だけがたどり着ける、一つの境地を感じた。
できれば東京まで鑑賞に行きたいが、……。
確定申告の締め切りが近付いているが、まだ着手できない。
疲れてダウン。
3月7日(木)「そろそろ寝不足の限界か・・・の風さん」
午前3時に目が覚めた。目が覚めて良かった。この後、仕事ができたから。
もし目が覚めなかったら? 夕べから何もできないまま夜明け……ならまだしも、二度と目が覚めなかったら、それは永眠……(-_-)zzz…∞。
家を出る前に庭を眺めると、梅が完璧に満開である。
午前中の会議の途中で退席して本社へ。
防災関係の説明会に出席。検討不十分な内容の説明会だったため、予想通り、質問の嵐に。私も軽くコメント。意地悪は「なし」。
昼食を摂ってすぐ旧職場へ移動。午後一に到着した。
同僚と二人で上司に資料の説明をしたが、資料不足だったため、残業になった。
責任をとって、私が下書きを作成した。
同僚が仕上げている間、どうにも体がだるい感じがする。やはり睡眠不足が尾を引いているか。
明日の朝が早いこともあり、久しぶりにまともな時刻に就寝……しようとした。
3月8日(金)「人間の問題・・・の風さん」
寝不足のまま早起きして本社へ直行。
かなり早く着いたので、駐車場で10分だけ仮眠。スッキリした。
昨日作成した資料で部長に説明して、設備購入の承認を得た後、部長と二人だけで、私の定年後のことを相談した。こちらもスッキリした。
研修所へ顔を出して、少し仕事。
昼食後、プロジェクトX「YS−11」の後半を鑑賞。せっかくの名機が誕生したのに、また航空機設計・製造技術の伝承が途絶えることに。恐らく5人のサムライの多くは、MRJの完成も知らないままあの世に旅立ったのではないか。しかし、MRJが次に継承そして発展するかどうかは、なかなか難しい。技術開発の継続の重要さを再認識したビデオだった。
ところが、アクシデント発生。ビデオカセットが取り出せなくなってしまった。家電製品はコンスタントに使ってないと、こういうことになる。あ〜。
旧職場へ移動して、夕方、ちょっと悩ましい会議をやった。こちらは技術の問題ではなく、人間の問題。いくら年輪を重ねても、人間の問題は難しい。
ATMで通帳の残高を確認して退社(月曜日に高額が引き落とされる)。途中でミッシェルにも給油した。
3月9日(土)「久しぶりの映画鑑賞・・・の風さん」
春休みだし、確定申告もあるので、長男が帰省してきている(バイトしているから)。私もやっと昨日から確定申告の準備を始めた。
今日は朝から気温が上がって、18℃くらいになった。先週末、福島で雪に降られて震えたのが嘘のような気がする。とにかくポカポカ陽気の中、朝から確定申告のための、データ整理に励んだ。1年分の領収書を使途(費目)別に分類して集計するのである。具体的にはエクセルのデータベースを作る。
先に主な用事を終えた長男は、今日は遊びに出かけた。
私の作業は一向に終わらない。
夕食までに疲れてしまった。
ワイフと相談して、映画を観に行くことに。海外旅行で次女がいないので、チャンスだった。ほぼ1年ぶりか。
遅い9時から上映される「ダイ・ハード ラストチャンス」を観た。
いつもながら、観客の少ないこと。アメリカは映画観賞は娯楽の中でもかなり上位を占めるそうだが、日本ではどうしてこんなに人気がないのだろう。
父と息子の人間模様が出ていて、なかなか良い出来の作品だった。
観終わって、外へ出るときには「どんなことをしても決して死なない」ような気になっていた(笑)。
恒例のゲームセンターでひと遊び。最後に、係員のお情けも得て、UFOキャッチャーで、ピンクパンサーとばいきんマンのぬいぐるみをゲット。
3月10日(日)「確定申告がやっと終了・・・の風さん」
朝から強風が吹き荒れていた。春一番だろうか。
昨日に続いて、確定申告の準備。
東京では「煙霧」という自然現象が見られたという。
この時期、花粉に加えて中国からの黄砂が吹き込んでくる。今年は、あやしげな微粒子PM2.5まで混じっているので、それも影響しているのかもしれない。
途中で雨がぱらついた。
結局、申告書の作成は、夕食後となってしまった。
雨が上がって、再び強風が吹き荒れている音を聞きながら、作業の大詰めに入った。
ごく普通にと言うか、すなおに例年のルールで集計して、ネット上の申告用紙に数字を埋めていったら、作家業は当然の赤字になった。しかし、昨年はやや納税額が多かったにもかかわらず、還付金の額は期待ほどでなかった。
今年の10月で定年になる私の、来年の確定申告はどうなるのだろう?
午前2時ころ、すべての作業が終了した。
疲れた。
3月11日(月)「今夜は次女を除いた家族4人・・・の風さん」
昨夜(今朝?)の睡眠時間は3時間だった。
確定申告の作業中に11日になったのだが、東日本大震災が発生したのは、午後2時過ぎだったから、朝の間は感慨はない。
出社途中で、確定申告を郵送した。例年、準備した書類は完璧で、そのまま受け入れられるが、今年もそうあってほしい。
花粉の飛散もピークを迎えているので、マスクをし、薬も飲んでいる。私はかろうじて体をまともに動かしていられるが、会社の同僚の中には、「不調」のラベルを体に貼ったような人もいる。本人はまだ花粉症を発症していないと言っていたが、私の目には明らかだった。気の毒だったので、マスクを推奨しつつ、薬を分けてあげた。はたして、午後になって彼女は元気になった。また仲間が増えた。
昼食後、会議をひとつこなしてから、旧職場へ移動した。
旧職場でも会議をひとつこなして、ようやく退社した。
帰宅すると、長女も確定申告のために帰省していた。
いつもは次女と私たち夫婦の生活だが、今夜は長男と長女と私たちの4人という、珍しい組み合わせだった。嬉しいワイフが夕食時にビールを出した。
結果がどうなるかは分かっていたが、私も一緒に飲んだ。
東日本大震災からの2年は、私にとって、とんでもない2年だった……が、夕食後、長女が持参したニンテンドーDSで遊んだあと、リビングでダウンした。
3月12日(火)「あれから2年とは・・・の風さん」
昨夜の睡眠時間は4時間だった。
家を出るとき、ミッシェルの様子がおかしかった。アクセルを踏み込んでも加速しないのである。
しばらく走ったら、普通になった気がしたので、そのまま有料道路にも乗った。
研修所に出社し、会議に出た後、旧職場へ移動した。
その間に、ちょっと変な事件があった。会社に税務署が調査に入っていて、私が関係した仕事について、エビデンスを求められているというのだ。そのエビデンスは、メール以外に考えられなかった。
旧職場に移動した後、夕方になってその連絡があった。
しかし、そのメール記録は、旧職場のパソコンでなく、研修所のパソコンの中だったので、すぐに提供できなかった。明日の朝早く、探し出して提供することになった。
怒涛の日々を送っているので、落ち着いて振り返ることができなかったが、やはり昨日は東日本大震災から2年だった。私にとって、別の意味で、この2年間はタフな2年間だった。
90歳の母が心筋梗塞で倒れたのが、2年前の2月だった。死の淵から奇跡的によみがえった母だったが、その1ヶ月後に重い認知症が発覚した。
その事実を抱えた私は、3月11日に福島県を後にしたが、午後、東京で下車して、出版社と打ち合わせ中に被災した。首都圏での帰宅困難者515万人の1人が私だった。
大震災があっても、私の毎月の福島通いは年末まで続いた。その間、残念ながら母の認知症は進行し、足腰も弱った。限界と判断し、その年、最後の外来日に母をだまして入院させた。措置入院である。
母をだましたことがいつまでも心の重荷になった私は、その後、福島へ行くことができず、母の面倒は、兄夫婦の仕事になった。
しかし、その後も、母の認知症は相変わらずで、精神が穏やかになることもなかった。
そうこういしているうちに、昨年の8月に大腿骨骨折・手術、9月には背骨の圧迫骨折し、10月には肺炎になってしまった。
再び私の福島通いが始まったが、長くは続かなかった。11月11日、母の92回目の誕生日を過ぎた1週間後、とうとう母は帰らぬ人となったからである。
父のときと同様、家族だけの葬儀を福島で、四十九日はこちらのお寺で年末までに済ませ、本当の悲しみを感じるヒマもなく、新しい年が明けた。
この間も、会社員として、作家として、学生として、むろん家庭人としても超多忙な日々を送ってきた。
気が付けば、子供らはおとなとして自立寸前にあるし、私自身は定年が射程距離に入り、大学院の卒業も見えてきた。大きな節目に向かいつつある。
激動の2年間だった。
3月13日(水)「ミッシェルがドックイン・・・の風さん」
今朝のミッシェルも変だった。昨日と同様、車庫を出てすぐ、坂道を登れないのだ。
平坦な道路に出てからも、注意深く運転した。下手にアクセルを踏み込むと、失火してエンジンが止まりそうだった。
その心配は現実のものになった。
有料道路に入る直前の信号で止まったら、エンストした。
急いでセルを回そうとしたが、うんともすんとも反応しなかった。
後ろにも1台止まっていたので、内心(やばい!)と思って、ハザードを点灯させ、ミッシェルから降りて自力でクルマを押しながら、脇道へ退避させようかと思いつつ、もう一度キーを回したら、エンジンがかかった。
有料道路をドキドキしながら走って、あとでカリチュー(中古車屋)へ持っていこうと思った。
本社へ出張する機会があったので、ミッシェルをドックインさせ、代車のコルサを借りてきた。
コルサは亡父が最後に乗っていて、残りの車検期間を私が引き継いだ思い出の車種である。
帰宅したら、アマゾンに注文した古本、DHCのサプリメント、マイソニークラブのポイントでゲットしたトレイが一気に届いていた。
ミッシェルがドックインして気持ちが落ち込んでいたが、少しだけ復活した。
しかし、それ以上に、体調が悪い。花粉症のせいだ。
3月14日(木)「次女が帰国・・・の風さん」
日付から想像できるように、今日は円周率の日だ。
それを記念して、週末に関孝和数学研究所主催の講演会がある。今年はうまい具合に、出席できる。
今日は、午後、本社へ行き、データベースの調査をしている某社のインタビューを受けた。
せっかくなので、勤務先の製品展示場を案内した。
私(作家鳴海風)の調査をするために、『江戸の天才数学者』を読んでくれたそうだ。
作家にとってどのようなデータベースが必要か、それが最大の調査項目だったらしいが、人間を描く小説を書くのが目的なので、必ずしもデータベースが重要なわけではない。
いちおう歴史小説を書くための、史実や記録を日にち単位でエクセル表に埋めていく作業だけは、データベースに関係があって、相手も納得したようだ。
今夜9時に次女が中国から帰国する。
帰宅して、夕食を摂って早々、セントレアへワイフと向かった。
着いてビックリ。到着予想時刻が10時半ころだった。中国からの到着便は、のきなみ遅延だった。
インフォメーションで尋ねても、理由は分からなかった。
空港内のショップも9時に閉店になってしまうので、いったん帰宅して出直すことにした。
空港島までの有料道路代がもったいなかったが、仕方ない。
再度、出迎えに向かったが、次女の顔を見たのは11時過ぎだった。
次女によると、乗継便が遅れたために出発が遅れたそうで、既にケータイがつながらない場所にいて、連絡のしようがなかったとのこと。
とはいえ、何とも不愉快な出迎えだった。
あとで、春節で旅行に出た中国人が、あちこちの空港や機内で問題を起こしていたことを知った。
それが原因で、フライトの出発・到着時刻に影響が出たような気がする。
3月15日(金)「花粉症で苦しむ・・・の風さん」
連日、花粉攻撃で、マスクと飲み薬、目薬が欠かせないが、最も被害を受けているのは目だ。
かゆいし、涙が出て、とにかく不快である。
今日は、名古屋へ出張した。
マスクとサングラスで花粉から防衛した。暖かか寒いかよく分からないので、コートも羽織っていて、外見は怪しかったろう。しかし、そんなことは気にしていられない。
今日は、JMAの生産技術マネジメント革新研究会の最終報告会だったので、終了後、懇親会もあった。
花粉症でやや不調ではあったが、しっかり飲んで交流して、おまけに『江戸の天才数学者』も2冊販売した。アルコールはアレルギーには禁物で、花粉症が少し悪化した(自業自得)。
電車の中で、だいぶ以前に購入した小川糸の『食堂かたつむり』を、今頃になって読んだ。
なかなか面白い。知り合いの作家の文体と似ている。そして、実に文章がうまい。きちんと書かれていて、安心感がある。しかし、主人公の特異なキャラクターというか感性に、ときどきついていけなくなる。
3月16日(土)「数学文化シンポジウム・・・の風さん」
今日からくもん出版の長谷さんの個展がギャラリーオキュルスで始まるが、期間中に行くことができない。
それで、昨日、お詫びに、お祝いの花を届けた。
そして、私は、今日と明日、久しぶりに和算にどっぷり浸かることになる。
四日市で関孝和数学研究所主催の「数学文化シンポジウム」が開催されるのだ。
名古屋から近鉄に乗った。往路はずっと読書をしていたが、最後、車内でパンを食べて昼食にした。
四日市は3度目くらいになる。
初めて来たのは博物館で開催されている「鯨展」を見るためだった。
太地町の鯨漁の勉強をして、いつか小説にしようと思っていたが、展示物の中に津本陽さんの直木賞受賞作『深重の海』があり、不勉強を思い知らされた。『深重の海』は素晴らしい作品だった。
2度目は、関孝和数学研究所開所記念(こけら落とし)講演会で講演するためだった。
今回は関孝和特集で、謎の多い関孝和の事績に対する考察が中心だった。
和算に興味のある人が参加しているので、私の本も売れるだろうと踏んで、『江戸の天才数学者』を持参したが、持ってきた9冊すべてが売れ、さらに1冊注文も入った。
夜は懇親会になり、先生方としゃぶしゃぶを食べながら、楽しく交流したが、高級料理だったので、本の売り上げがほとんど吹っ飛んだ(笑)。
3月17日(日)「数学文化シンポジウム2日目・・・の風さん」
シンポジウムの2日目である。昨日は午後で、今日は午前中だった。なので、かなり早起きしなければならなかった。
昨日はほとんど関孝和の話題だったが、今日は、和算を英訳して紹介する場合の課題についての話だった。
数式表現も、単に西洋数学の記述にしてしまうと、和算の考え方が伝わらなくなるので、どこまで西洋式にするかが問題だった。
英訳も、和算は本来中国から入ってきたものがベースなので、現代の中国語読みに変換していいのかどうかという話だ。日本式の読み方も定着しているので、区分けが難しい。書名、人名もそうである。
昨日に続いて、お昼御飯も先生方と一緒に食べた。
名古屋まで戻った私は、ホワイトデーの買い物をしてから帰宅したが、けっこう苦労した。
今夜はDVDに入っている動画のコピーを作る予定だったが、うまくいかなかった。
やけくそで、LINEのゲームに興じてしまった。
3月18日(月)「雨の週明け・・・の風さん」
寝室の窓のカーテンを開くと、2階まで高く育った木蓮の白い花が目に入る季節になった。
長女と次女は、今日からディズニーシー旅行だ。ただし、今日はバスでの移動だけ。
まるで修学旅行みたいな写真がメールで送られてきた。無事出発したらしい。
代車のコルサに乗って、久しぶりに製作所に出社した。
会議に存在感のない出席をしてから研修所へ移動した。
申し訳ないが、貧乏人としてのホワイトデーの贈り物を、しかも遅れて渡した。それでもこれが、今日の最大のミッションだったかもしれない。
今日は研修がなかったので、研修生がおらず、昼食は職員だけ。業者が面倒な握り寿司を作ってふるまってくれた。
食べ過ぎたわけでもないのに、昼休みにうたた寝をしていたら、背中を叩かれて飛び起きた。
ささやかなホワイトデーでも喜んでくれた人たちが、貧乏人を激励に来てくれたのだ。
感謝感謝感謝。
午後から雨になった。
午後、旧職場へ出張したが、気になるところすべてに手を入れてくれたミッシェルを途中で受け取った。
走りが良くなった気がする。
雨は激しくなり、明日のディズニーシーが心配になった。
夕方から小降りになってきたので、雨雲が今夜中に関東地方を駆け抜けてくれれば、明日は晴れるのだが。
3月19日(火)「また借金が増えた・・・の風さん」
LINEのゲームは1週間単位で記録がクリアされる。遊んでいる場合ではないので、昨日からゲームはしていない。しかし、アイテムだけは貯めていく。
当地は天気予報通りに晴れた。
舞浜はどうかと心配していたが、新聞では昨日の予報と違って晴れになっていた。
メールでも楽しんでいて、しかも順調にアトラクションをこなしているという報告があった。
今日は午前中、会社のA製作所を東大の関係者が見学に訪れていて、その中に、愛工大で1年早く学位を取得した人がまじっていた。4月から某大学に就職も決まっているとのことだったので、お祝いに拙著を贈呈することにして、同僚に託してあった。
昼食後、午前中の見学団のボスともいうべき先生の講義が研修所であり、私も受講というか同席した。
生産工学の授業だったが、内容はほとんどMBAに近かった。
夕方、オリコ学資ローンからケータイに電話があり、審査が通ったという。また借金が増えた。
将来ある若者なら、こういった自分への先行投資は堂々とすればいい。しかし、おいぼれ風さんでは、なんともうしろめたさが残る。執筆や出版で社会へ恩返しするのが目標だが、もし寿命が尽きたり、たとえ生きていてもボケてしまったら、何の意味もない。
気持ちは落ち込むばかりだった。
長女らは、今夜のバスで帰ってくる。
3月20日(水)「帰省計画・・・の風さん」
娑婆が祭日(春分の日)だと、道路が空いているので運転が楽だ。
3つの会議が集中したので、旧職場へ朝から向かったが、2つが延期され、結果的に重要な1つだけになった。この1つの準備のために、午前中をすべて使った。
夕方の会議を無事に終えたので、上司に4月の東京出張許可をお願いして承認された。
人数限定、無料の講演会である。終わったら、その足で福島へ行く。
その前に、月末にまた実家へ遺品の整理に行くことに決めた。
なるべくお金をかけたくないので、またバスを活用する。
こんなこと、いつまでできるだろうか。
今夜は、センターの懇親会だが、余裕がないため欠席。
LINEのゲームはまだ中断中。しかし、にんじんやハートがだいぶたまってきたな。
3月21日(木)「秋の計画は微妙・・・の風さん」
東北から北ではまだときおり寒波が襲ってきているが、当地はすっかり春模様だ。
早いところは桜もほころびだした。
気候がよくなると、活動がしやすくなるが、一方で体がだるくなることもある。
一番の原因は花粉症である。
苦しむのはイヤなので、常にマスクを装着し、不調を感じたらすぐ強力な薬を飲む。
夕方から本社へ出張し、会議の前に、気になっていた電話をかけてみたら、運よく相手が在席で、話が首尾よく進んだ。
精密工学会のある委員会からの工場見学希望の取り次ぎである。
うまくいったので、自分も当然アテンドするつもりだが、希望日程をあらためて眺めて、失神しかけた。
この秋の、私の定年退職日の1週間後である。
何かの拍子に会社からおさらばしているわけにはいかない。
3月22日(金)「マルチな1日・・・の風さん」
本社へ直行し、ミッシェルを置いて、駅まで大学の先生の迎えに行った。
改札口で先生と合流し、本社にあるギャラリー(製品展示室)をご案内した。
この後、先生の研究(SCM関連)の一環で、本社の某部長へのインタビューがあるのだが(私が仲介した)、会社の概要をある程度把握しておくことが重要と判断したからだ。この間の某機関の私へのインタビューと同じ発想である。
先生は万全の準備をして来られ、インタビューはスムーズに終了した。
収穫もあったようで、また、某部長も超多忙の中、それほどの迷惑とは感じなかったようで、仲介役としてはホッとした気分だ。同席していて、私自身も勉強になることがあり、有意義だった。
その後、先生とランチを一緒に摂り、雑談しながら親睦を深めることができた。
昼休みに某メーカーへ電話した。
会社の仕事で知り合ったメーカーだが、ビジネススクールで学んだ起業につながる技術を持っていることから、スクールの仲間と一緒に、起業につながるかどうか、アントレプレナーになったつもりで活動を始めた。今日の電話は、その一環である。
さらに、午後、元部下と一緒に本社内の研究部署の知人を訪ね、先日、名大の先生からうかがった共同研究の中身について、しっかり解説してもらった。
元部下を連れて行ったことによる成果があったかどうかはまだ分からないが、私自身にとっては、またまた新知識を得ることができて、非常に楽しかった。つくづく自分はエンジニアで研究好きなのだと思う。
それから、ミッシェルで旧職場へ向かい、たまっている雑用を処理してから帰宅した。
明日のゼミに備えて、今夜は早寝することに決めたので、LINEのゲームを集中的にやり、自分としての新記録を出した(笑)。
3月23日(土)「ゼミは成功・・・の風さん」
結局、たっぷり寝てしまった。もしかすると、絶好調かも。
しかし、ゼミのための準備時間は不十分だった。
やりながら、今日の相談ポイントを絞ることにした。これで、大丈夫。
強風が吹く中、駅まで歩いて、電車に乗った。車中では読書。
ゼミはケースライティングの個人指導だったので、1時間で終了。最後に、同窓生とやりかけている起業の相談もした。充実したゼミだった。方向付けもできたので、これからは毎週進捗をメールで報告することにした。
帰宅したら、開放感が全身にみなぎってくるのを感じた。来週また福島へ行くので、この週末は大事である。うまく課題を処理できたら、未来は明るくなる。そんな気がした。
3月24日(日)「順調に積木崩し・・・の風さん」
ワイフのトールペインティング体験教室に、会社の女性がお嬢さんを連れて参加するので、昨日から少し気になっていた。体験教室といいながら、常連さんがほとんどだそうで、その常連にいじめられるのではないか、と。
ワイフから「子供じゃあるまいし」と非難されたので、終わるころ覗きに行くことにした。
正午寸前に家を出た。
快晴で、海岸通りの道路はやや混んでいる。これから潮干狩りを皮切りに観光シーズンが続く。
ミッシェルの幌を開けて走りたかったが、少し我慢した。
道路沿いの施設に着くと、まだ終わっていなかった。
予想外で、初体験のお嬢さんがさっさと完成していて、母である同僚は、トール経験者にもかかわらず、非常に遅れていた。
それにしても、お嬢さんの作品の出来がいい。驚きだ。
とにかく安心したので、気分よく施設を後にして、帰りに久しぶりに図書館に寄ってきた。
昼食後も、着々とたまった仕事の積木崩しに取り組んだ。
夜は、懸案だったDVDやCD作りができた。
このまま一気に元のペースに戻れたら最高なのだが……。
3月25日(月)「どうも思考が後ろ向き・・・の風さん」
出社時、コンビニに寄ってDVDを入れたレターパックを2通投函した。昨年12月以来気になっていた件が、これでいちおう解決した。
旧職場でK2テストを受けた。過去2回ぐらいやったことがあるが、手先の器用さも求められるテストなので、苦手である。このテストの目的は交通安全のための運転適性検査みたいなものである。
自慢できるような結果は期待できないが、31年間無事故無違反(その間50万km以上走行)なので、不適性ということは断じてないはずだ。
とはいえ、老いぼれてきていることは事実なので、適性状態のまま、いつか免許証を返上しなければならない。
夕方、自分が主催した会議をこなし、議事録を配布してから退社した。
途中、郵便局に寄って、長男へ援助金を送った。今年10月に定年退職した後は、たとえ雇用延長してもらっても、こういった余裕はなくなってしまう。そんなことを考えていると、鬱病になりそうだ。
3月26日(火)「あれこれやっている中には定年準備も・・・の風さん」
会社でも仕事がたまっているので、毎日、何かやっている(笑)。
午前中、研修所の図書室に関する打ち合わせをし、一つの結論を出し、続けて部長に説明した。了解を得たので、来週所員にも説明する。
午後、面白い経験をした。災害時に屋外で利用する簡易トイレを覆う小さなテントの組み立てを学んだ。
非常時のものなので、テントはもちろん簡易トイレも最低限使用に耐えるという構造だ。
大学院時代に宮城県沖地震を経験したが、あのときは下水道が断水したので、トイレが困った。しばらくは風呂の残り水で流せるが、それがなくなると、本当に使用できない。
結局、近くのガソリンスタンドから井戸水(ガソリンスタンドには井戸がある)をもらったり、給水車を待つしかなかった。
続けて、懸案事項を一つ、部長に相談し、期待とは違ったが、ある結論を得た。
今日は戸締まり当番だったので、まだ時間があった。
贈呈していなかった会長に『江戸の天才数学者』と学位論文などのデータの入ったCDを送った。ほとんど定年退職の準備みたいだが、同封したレターにもそのようなニュアンスのことを書いたから、やはりそういうことだ。
3月27日(水)「偶然Oさんと再会・・・の風さん」
朝から、本当に懸案事項の会議を開催した。
ずーっと頭を悩ませているもので、チームの仲間に相談する会議だった。
3人の反応は意外なもので、私がピント外れの方向で検討しているのではないか、というものだった。
じゃあどうすればいいのか。私がこれまで思ってもいなかった方向が提案された。
反対しても先に進めるわけではないので、とりあえず、仲間の提案に従ってみようと思う。
月例の有料道路利用料金の申請処理をしてから、あわただしく研修所を出た。
本社へ寄る途中、知人の作品が出ている陶芸展を覗いた。知人の作品はまた進化したようだ。形も色もすばらしい。
本社入り口付近で、偶然、P社のOさんに会った。昨年の途中まで旧職場に出向していた方で、今は、別の仕事で活躍しているのだが、今日は営業のために同僚と訪問してきたのだという。P社はなかなか厳しい経営環境にあるが、Oさんはお元気そうだったので、少し安心した。
今年初めて大野先生を訪ね、4月から始まる講義の打ち合わせをしたが、ほとんどメールで済ませてあるので、ご機嫌伺いが主目的だった。先日体調不良とのメールがあったが、まだ続いていて、近く精密検査をされるとのこと。
ご自分のことより、私の第二の就職先のことを心配してくださり、不肖の弟子としては頭を垂れるしかなかった。
旧職場に着くと、残業調整に入っているはずの相棒が、まだ執務をしており、早く帰れ、と言いつつ、それ以上邪魔しないことにした。
今日は帰りに、これまた久しぶりに大型家電量販店に寄って、あれこれ物色したが、貧乏人の悲哀を味わうばかりだった。
3月28日(木)「スパイラルダウンに続いて不調・・・の風さん」
昨夜、久しぶりにリビングでダウンした。体力ないなあ。
5時に目覚めて入浴後、早朝から東京へ出かけるワイフを駅まで送った。
6時29分発の電車だったので、昨夜のダウンは結果オーライかも。普通に就寝していたら、起きられなかった(笑)。
早起きした勢いで研修所へも早く着いた。
午前中会議があったが、その合間に、自分が主催した午後の会議の準備をした。
昼休みは、最近タイへ旅行した所員の報告があった。タイは、トランジットでバンコク空港に寄った経験しかない。夏だったので非常に暑かった。今日の話によると、わずかな滞在期間中でも日中の最高気温が35℃になったことがあったそうで、気温的には2月ごろがいいかも、とのことだった。
たくさんの写真から受けた印象は、私の子供の頃の風景に似ていて(それだけ貧しいということか)、胸にじーんと迫る。食べ物の写真も多かったが、大野優凛子さんの本から受ける辛さやデトックス効果は、あまり感じられなかった。
午後の会議とイベントはなんとか終わった。
今日も定年のことが頭を何度もよぎり、気分が落ち込んだ。
途中でネットを通じて、大学の公募をチェックしたが、自信をもって応募できる案件はなかった。
このままだと雇用延長に入るが、単にお金目的ということになりかねない。
また、思考がスパイラルダウンへ。やれやれ。
定時になったので、さっさと退社した。が、ミッシェルが不調!
トルクとギヤの選択がおかしい。どうやら最近の不調は、オートマの故障なのかもしれない。
来週またドックインをさせねばならない。
私の方がドックインが必要かもしれないのに。
3月29日(金)「18時間の旅・・・の風さん」
昨夜11時発の夜行バスで出発した。長女からもらった枕を持参したので、首が痛くて眠れないことはない。
しかし、たとえ痛くても、生きていても半分死んでいるようなところがあるので、午前零時前に寝てしまった。
途中4回の休憩などによる停車があったが、まるで知らなかった。
それでも明け方、目が覚めたので、生き返ったようなものだった。
新宿で降りたのだが、東京は暑くもなく寒くもなく、そして風も吹いていない穏やかな気候だった。
2時間弱の待ち合わせで、また高速バスに乗った。
これじゃ学生の帰省だな。
ジュンク堂池袋本店の前をバスが通った。貧乏作家の悲哀が万感の思いとなって胸に迫ってきた……はずないか(笑)。
王子駅に近づくころ、満開を過ぎて散りだした桜がやたらと目につく。愛知県より、東京の方が桜の開花時期は早いのだ。
疲労がたまっているのだろう。うつらうつらしながらのバスの旅になった。
東北道をひた走りながら、新幹線とよく似た田園風景を眺めて過ごす。
引退して田舎に引っ込むのもいいかもしれない。しかし、死んだ父が言っていたように、寒いところではつらい。確かに父は、寒い2月に自宅の脱衣所で心不全で死んだのだ。私も長生きしたとしても、きっと寒い朝に心不全で死ぬに違いない。
長いバスの旅を終えたのは、12時過ぎで、やっと郡山駅前に着いた。
駅の待合室で休んでから、午後1時前にやってくる旧職場の仲間3人を、改札口でサプライズ出迎えした。
私も彼らと同じ仕事をしていたら、ここまでは出張で来れたかもしれない。不運な男だ、私は(笑)。
それから昼食に蕎麦を食べ、再び待合室へ行って、福島の民話を聞いてから、バスで実家へ向かった。
実家に着いたのは、昨夜自宅を出てから約18時間後だった。まるで外国旅行だ。
どうにか元気を取り戻したので、すぐに母の遺品整理を始めた。
3月30日(土)「埋蔵金・・・の風さん」
それほど寝坊もせず、7時半に起床した。
パンで朝食を摂ったあと、昨日に続いて、茶の間と台所の整理にとりかかった。
1時間作業しては少し休憩し、元気が出たらまた作業をするという、マイペースで続けたので、あまり疲れることもなく、着々と仕事は進んでいった。
しかし、荷物が多いということは苦労する主原因である。当然だが、ゴミに近いものまでストックしてあるのは、決してほめられたことではない。作業をしながら、自分のことをついつい考えてしまう。やはり母子だから似ているのかもしれない。あれもこれも保管してあり、買いだめも多い。帰ったら、やはり自分の所有物をもっと整理しなくちゃ。
昼食はカップラーメンにした。
今日も日中は穏やかな天気なので、あちこちの窓を小さく開けて作業ができる。雪に降られた前回、前々回と大違いだ。しかし、茶の間と台所以外に手が回らない。だんだん茶の間に集中するようになったが、それでも、茶の間すら終わらないまま夕ご飯の時間になった。
今夜は兄貴の家で食べさせてもらうのだ。
遺品の整理で出てきた宝物を携えて家を出た。
宝物というのは、もしかするとそのままになっているかもしれない銀行預金である。
解約した確固とした証拠のない定期預金が2件見つかったのだ。
しかし、証拠がないだけで、どちらもちゃんと母が解約して、証拠になるような記録をすべて捨て去っていれば、やはりそれは幻の定期預金なのである。
私はそれを埋蔵金と呼んだ。
「あっという間に夢が破れないように、来週になってすぐ銀行に調べに行くのはやめてほしい」
宝くじは当選しないことの方が圧倒的に多い。結果が出るまで夢を見るのが楽しみなのだ。
今回の埋蔵金も似たものだろう。
3月31日(日)「のぞみのグリーンでITを駆使・・・の風さん」
少し寝坊したが、8時半に起床。やけに寒い。昨日の天気予報では、福島県の会津から中通りにかけて、明け方は雪か雨だった。
夕べもエアコンを消して寝たので、冷え込むのは仕方ないか。そう思いながらエアコンのスイッチを入れた。……と、まだ温風が出てこないうちに、窓のカーテンが揺れている。な、なんだぁ?
昨日はあちこちの窓を開けて整理をしたが、自分の部屋だけ、窓を閉め忘れていたのだ。
急いで朝食を摂って、作業に取りかかった。今日は再び台所だ。
しかし、ゴミの集積場にしてある父の部屋を行ったり来たりするので、手をつけるのは台所だけではない。気が付けばどこでも手を出す。分別さえ間違えなければ、順番はどうでもいい。
不思議なことに、2階の冷蔵庫の上に、兄貴の小中学校時代の賞状が束になって置いてあった。以前からここにあったに違いない。オフクロがやったとしたら、1年3ヶ月以上も前だ。なぜこれまで気が付かなかったのだろう。
それはともかく、兄貴の書道の賞状が何通もあった。字がうまかったのだ。
今回は一度も洗濯をしなかったが、最後に風呂洗いはちゃんとした。
あとは持てるだけ形見の品物をかばんに詰めた。
昼過ぎに兄貴夫婦に駅まで送ってもらった。外気温は3℃である。やがて雨が降り出した。
駅でまた蕎麦を食べた。待合室には寄らなかった。
今朝から花粉症の薬を大量に服用していたので、高速バスに乗ってから、ぐったりしていた。
東京にはやや遅れて着いた。日曜日だから、夕方は道路が混むのである。
新宿からJRで東京へ出、今回最大のぜいたくである新幹線のグリーン車に乗った。エクスプレス予約のたまったポイントを使えるのは今回ぐらいしかないと思ったからだ。
iPhone5 の電池が減ってしまったので、マックエアーを立ち上げてUSBに接続した。これで充電できる。
え? コンセントはないのかって? こののぞみのグリーン車にはなぜかコンセントがなかったのだ。
せっかくだから、ネット接続もし、こうして今日の日記も書いているというわけだ。
帰宅は10時過ぎになる予定。
名古屋が近付いたころ、コンセントを発見した。2人掛けの座席の中央にあるアームレストの先端にあった。充電がしっかりできなかった。
2013年4月はここ
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